三国志の時代、曹操の典医(侍医)となり、民衆たちから「神医」と呼ばれ、尊敬のまなざしを集めた伝説的な医師がいました。創薬、鍼灸、外科手術などの高度な医術を駆使した華佗。彼こそ東洋医学史上No.1のレジェンド。
目次
● 神医 華佗
● 世界初の麻酔薬を発明
● 寄生虫研究の第一人者
● 病気の再発や死亡する時期を予言できた
● インフォームド・コンセントを行っていた
● 健康体操法を発案した
● 華佗は東洋医学界の”神”だ!!
神医 華佗
今から約1800年前、後漢末期。人々から「神医」と称賛されるひとりの男がいました。
その者は名前を華佗、字を元化と言い豊富な薬学の知識と医療技術を有していました。彼の医術はまさに”神業”。その噂は中国全土に名を轟かせ、魏の礎を築いた乱世の奸雄 曹操が典医(侍医)に召し出したほど。まさしく彼こそ「神医」の称号に値する素晴らしい名医です。
医術によって高い功徳を積むも、当時の社会情勢に悩み、苦しみ、非業の死を迎えた彼。本記事では、神医華佗が成し遂げた偉業や難しい治療などのレジェンドをお送りします。
世界初の麻酔薬を発明
当時は医者が薬剤師の仕事も行っていました。患者の脈拍や訴える症状、あるいわ身体に現れる視覚的なサインから病気を特定し、処方する薬を決めました。それから薬草の効能や組み合わせ、配合の分量を調べて処方箋に書き写し、それから薬品の分量を量りながら調合を行っていたため、時には在庫がなく患者が服用するまでに時間がかかりました。
しかし華佗はありとあらゆる薬の名前や薬草の組み合わせ、分量を記憶しており、薬品を調合する際はすべて目分量で調合していました。一歩間違うと危険な調合方法ですが、華佗の薬の配合は完璧で、みんな信じて疑わなかったそうです。そのため、華佗の薬はもらってすぐに水で煮出して飲めばよかったので、すぐに服用することができました。
華佗は世界初の麻酔薬を発明したとされています。その薬は「麻沸散」と言い、患者に葡萄酒とともに服用させると、服用した患者は酩酊したように、意識がはっきりしなくなって、時間がたつとどんどん視覚・聴覚・触覚・痛覚・聴覚など身体じゅうのありとあらゆる感覚がなくなって、目が覚める頃には施術が終わっていたと後漢書に麻沸散の効能が書かれています。
麻沸散に関する著書は存在していましたが、近代にいたるまでの中国では外科手術の理解がなく、弟子でさえも処方を継承されていなかったため、華佗の死後に「麻沸散」を作る医者は中国に現れませんでした。
華佗の死後から約1550年が経過して、江戸時代中期に日本人の華岡青洲が華佗の麻沸散を参考にして、実母の死と妻の目の光と引き換えに全身麻酔薬「通仙散」(別名 麻沸散)を完成させました。
寄生虫研究の第一人者
現代のように寄生虫を予防する農薬や衛生環境の整った食品加工場がなかったこの時代は、寄生虫に感染したことが原因で命を落とす人も少なくありませんでした。
寄生虫による傷病は、お灸や鍼を打っても全然効果が見られないし、薬を服用してもその栄養分が寄生虫に吸収されて意味を成しません。また、特有のサインなどがないので治療には困難を極めました。華佗に体調不良を訴える患者の中には寄生虫に感染した者も多く、寄生虫の生体や人体からの排出方法を研究していたようです。
「正史三国志-華佗伝」や「後漢書-方術伝」に記録されている華佗の診断では、寄生虫に感染した者に的確な指示をして、寄生虫を吐き出させることに成功しています。
■世界で初めて寄生虫標本を作っていた
あるとき寄生虫の感染者が馬車に乗せられて医者にかかろうとした道中で偶然にも華佗と遭遇し、うめき声を聞いた華佗がその馬車を呼止めて診察をしました。華佗は患者に寄生虫を吐き出す方法を教え、患者がいう通りにすると、蛇のように長い寄生虫が口から外へ飛び出ました。
お礼をしようと華佗の自宅を訪ねて家の中に通されると、部屋の壁に数十もの蛇のように長い寄生虫がかかっていたそうです。
医療と科学が進んだ現代では、動植物や虫などをホルマリン漬けにしたり、真空状態を作って腐敗を防ぎ、原型を何年もとどめることができる標本が作られています。
これらを作るための薬品や装置がない時代に、どのようにして標本にしていたのかは謎に包まれたままです。
病気の再発や死亡する時期を予言できた
華佗が治療にあたった病気の中には、完全に治療することができず、症状が再発する恐れのある病気もありました。
そのため、華佗は診断したときに「あと何年後にまた同じ病気が再発するよ」、「病気を治してもあなたの寿命はあと10年以内で尽きるよ」という予言をしていたそうです。
華佗から以上のような予告をされた患者は言われたとおりになったそうです。
インフォームド・コンセントを行っていた
■インフォームド・コンセントとは
患者が医師などの医療従者から十分な説明を受け、患者がそれに納得・同意をして治療法を患者自身の意思で選択すること。
アメリカで1960年代にあった患者の人権運動で、従来の患者に対する医師の権威主義敵独善的態度(医師のパターナリズム)を批判する声が高まり、「患者を中心とした医療」が求められるようになりました。このプロセスを経て、新しい医療倫理の考え方を反映した裁判基準として確立された概念です。
(参考文献:保健医療行政ミニ語集)
三国志の時代も医者からこれからどんな施術をするのか、またどんな効能・副作用のある薬を与えるのか十分な説明をされず、患者は黙って受け入れるしかありませんでした。
しかし、華佗はちゃんとインフォームド・コンセントを行っていて、患者の合意を得たうえで手術にあたっていました。
健康体操法を発案した
小学校時代、夏休みの恒例であるラジオ体操をするため、近所の公園や集会所に集まって皆勤賞を狙っていた方も少なくないでしょう。ラジオ体操は健康体操および体力向上運動として戦後に発案されました。
この健康体操および体力向上運動の先駆けとなるものを華佗はあみだしました。華佗は屠蘇や五禽戯という健康体操法を発案したとされています。
五禽戯は虎戯、鹿戯、熊戯、猿戯、鳥戯5つの体操の総称で、これらの動物のポーズや動きを真似た運動をすることによって、体力向上、結構促進、栄養の消化吸収、デトックス効果を促すと言われています。
華佗の弟子である広陵の呉晋は、この言葉を信じて五禽戯に取り組んだためか、高齢になっても耳や目はハッキリしており、歯は一本もかけることなく90歳まで生きたそうです。
華佗は東洋医学界の”神”だ!!
華佗は、時代の波に翻弄され、自分の才能、技術をすべて継承できた者がいないのはまことに残念なことです。全身麻酔を発明した江戸時代の日本の医師である華岡青洲や家畜の去勢術、薬草学、鍼灸術、寄生虫研究など後世にも大きな影響を与えました。彼こそまさに東洋医史を代表する”神医”です。
色々調べている。6つほどの逸話にたどり着いた。詳細は後にして概要は次のようだ。
扁鵲について
師匠、長桑君との出会いと秘伝
・『史記』という中国歴史書の『扁鵲倉公列伝』という項目で紹介されている、周の時代の歴史的な名医。
・30日たつと垣根の向こうが見えるようになった
五臓の病気を早期発見することが出来る
・扁鵲の“鵲”の字は、カササギという鳥のこと。
・古来中国では、鳥は「神の使い」として神聖視されていた。とくにカササギは「風を知る鳥」として「物に先んじて動き、事に先んじて応じ、気風の象を見る」と記されている。
・ 秦の太医令丞李醯(Li Xi)(リ・ケイ)が差し向けた刺客に殺された
扁鵲伝の逸話 その1
昏睡状態の趙簡子が見た夢
五日間昏睡状態が続いている趙簡子
扁鵲曰く「血脈は問題ない。昔秦の穆公は七日眠って起きたとき「帝のところに行っていて楽しかった(以下長いので省略)」と言ったのでそれを記録して『秦策』ができた」と解説
二日半経って簡子が目覚め言った「帝のところに行っていて楽しかった(以下長いので省略)」
扁鵲は田四萬畝を褒美に貰った
扁鵲伝の逸話 その2
虢の太子を生き返らせる
虢の太子が死んだ(ように見えた)
病の兆候は大表にあらわれるのでわざわざ診察しなくても病気を診断できる
扁鵲は太子に会ってもいないのに尸厥であると診断し、治療して生き返らせた
扁鵲曰く「私は死人を生き返らせたのではなく当然に生きているものを起しただけである」
扁鵲伝の逸話 その3
扁鵲を信じない斉の桓侯の死
桓侯に三度謁見した扁鵲は三回とも治療をすすめる
桓侯は、扁鵲が病気でないものを治療して利を求めているのだと思って治療を断る
四度目に謁見したとき扁鵲は一目見ただけで桓侯がすでに治らないほど悪化していることを見抜き、すぐに逃げ去るその五日後に桓侯は体が痛み出し病死してしまう
扁鵲伝の逸話 その4
兄弟での腕の違い 第一次予防こそ最も重要
文公:お前たち兄弟三人の中で、一番医術に優れているのはだれか
扁鵲:長兄です。その次が次兄で、私が一番下手です
文公:そのわけは
扁鵲:長兄は人を診察する場合、病気がはっきりした形をとる前に治してしまいます。
ですから長兄の名前はその家の者しか知りません。
次兄は、患者の容体が軽いうちに治してしまいます。そこで次兄の名は、村里の者しか知りません。私ときましたら、血脈に鍼を刺し薬を投与し、肉をほふり、病を治します。
私の名は遠く諸侯に聞こえています.
扁鵲伝の逸話 その5
六不治
第一の不治:驕恣(きょうし:おごりがひどく欲ばりであること)で、物事の道理に従わない状態
第二の不治:財(お金など)をけちって身(健康)を軽んじる状態
第三の不治:衣食住を適切にしない、できない状態
第四の不治:陰陽が五臓にとどこおり、気が安定しない状態
第五の不治:身体が衰弱しきって、薬を服用できない状態
第六の不治:巫を信じて医を信じない状態
扁鵲伝の逸話 その6
心臓に精神があると考えた
・名医・扁鵲が“公扈”と“齊嬰”との心臓を入れ替え、公扈は齊嬰の家に、齊嬰は公扈の家にそれぞれ帰った(『列子』湯問篇)
『韓非子・喩老』と『史記・扁鵲倉公列伝』の中で、蔡の桓公が病気の治療を嫌がる話が出てきます。
春秋战国时期,名医扁鹊见到蔡桓公。他仔细地察看了蔡桓公一会,对桓公说:“大王,您病了,如今这病还在皮肤,但是,如果不治,就会加深的。”桓公皱皱眉头,说:“我没有病。”扁鹊走后,桓公就对左右的人说:“这些医生最喜欢医治那些没有病的人,以显示他们的本领。”
Chūnqiū zhànguó shíqī, míngyī piān què jiàn dào cài huán gōng. Tā zǐxì di chákàn le cài huán gōng yīhuì, duì huán gōng shuō: “dà wáng, nín bìng le, rújīn zhè bìng hái zài pífū, dànshì, rúguǒ bù zhì, jiù huì jiā shēn de.” Huán gōng zhòuzhòu méitóu, shuō: “wǒ méiyǒu bìng.” Piān què zǒu hòu, huán gōng jiù duì zuǒyòu de rén shuō: “zhè xiē yīshēng zuì xǐhuān yīzhì nàxiē méiyǒu bìng de rén, yǐ xiǎnshì tāmen de běnlǐng.”
春秋戦国時代、名医の扁鵲(へんじゃく)は蔡の桓公に会った。彼は蔡の桓公をつぶさに観察すると、桓公に言った。「大王、あなたは病気です。今、この病はまだ皮膚にありますが、もし治療をしないと、病はひどくなるでしょう。」桓公は眉間にしわを寄せて言った。「私は病気ではない。」扁鵲が去って後、桓公は側近の者に言った。「彼ら医者は病気でもない人間を治療し、彼らの腕前を顕示したがるものだ。」
过了五天,扁鹊又来见蔡桓公,对他说:“您的病已经进到肌肉和血脉里了,再不治,病就更深了。”桓公依然很不高兴。又过了五天,扁鹊再来见蔡桓公,对他说:“您的病如今已经深入肠脏,再不治疗就危险了。”桓公更不高兴,根本不听扁鹊的话。
Guò le wǔ tiān, piān què yòu lái jiàn cài huán gōng, duì tā shuō: “nín de bìng yǐjīng jìn dào jīròu hé xuèmài lǐ le, zài bùzhì, bìng jiù gèng shēn le.” Huán gōng yīrán hěn bù gāoxìng. Yòu guò le wǔ tiān, piān què zài lái jiàn cài huán gōng, duì tā shuō: “nín de bìng rújīn yǐjīng shēn rù chángzàng, zài bù zhìliáo jiù wēixiǎn le.” Huán gōng gèng bù gāoxìng, gēnběn bù tīng piān què de huà.
5日経って、扁鹊はまた蔡の桓公に会いに来て、王に言った。「あなたの病はもう筋肉と血管に達しています。まだ治療しないと、病はもっとひどくなります。」桓公は相変わらずたいへん不機嫌であった。また五日経って、扁鹊は再び蔡の桓公に会いに来て、王に言った。「あなたの病は、今はもう腸(はらわた)深くに入り込み、もう治療しないと危険です。」桓公はもっと不機嫌になり、扁鹊の話を全く聞こうとしなかった。
再过了五天,扁鹊遇见蔡桓公,立刻就转身走了。桓公很奇怪,派人去问扁鹊。扁鹊说:“一个人的疾病在皮肤,肌肉,肠脏,都可以用针灸,服药等方法来医治;但是,如果疾病深入到骨髓里去,那就没有办法治疗了。如今桓公的病已经深入骨髓,我还有什么办法呢?!”
Zài guò le wǔ tiān, piān què yùjiàn cài huán gōng, lìkè jiù zhuǎnshēn zǒu le. Huán gōng hěn qíguài, pài rén qù wèn piān què, piān què shuō: “yī ge rén de jíbìng zài pífū, jīròu, chángzàng, dōu kěyǐ yòng zhēn jiǔ, fú yào děng fānfǎ lái yīzhì; dànshì, rúguǒ jíbìng shēnrù dào gǔsuí lǐ qù, nà jiù méiyǒu bànfǎ zhìliáolle. Rújīn huán gōng de bìng yíjīng shēnrù gǔsuí, wǒ hái yǒu shénme bànfǎ ne?!”
更に5日が経ち、扁鹊は蔡の桓公に出会うと、直ちに体の向きを変え、立ち去った。桓公は不思議に思い、人を遣って扁鹊に尋ねさせた。扁鹊はこう言った。「人の病が皮膚や筋肉、腸(はらわた)にあるうちは、鍼灸や服薬などの方法で治療することができます。けれども、病が深く骨髄の中にまで入ってしまうと、もはや治療する方法はありません。今、桓公の病は既に骨髄に達しています。私に他にどんな方法があるというのですか。」
过了五天,桓公浑身疼痛,急忙派人去请扁鹊,扁鹊已经去了秦国。不久桓公就病死去了。
Guò le wǔ tiān, huán gōng húnshēn téngtòng, jímáng pài rén qù qǐng piān què, piān què yǐjīng qù le qín guó. Bù jiǔ huán gong jiù bìng sǐ qùle.
5日経って、桓公は全身が痛くなり、大急ぎで人を遣って扁鹊に来てもらおうとしたが、扁鹊は既に秦に行ってしまった。間もなく、桓公は病で亡くなった。
宋代的大儒周敦颐说:“今人有过,不喜人规,如讳疾而忌医,宁灭其身而无悟也。”这话的意思是说,现在的人有了过失,不喜欢别人批评指正;这正如一个人有了疾病,不肯讲出来,也不去请医生治疗,宁愿病死也不觉悟。
Sòng dài de dàrú zhōu dūnyí shuō: “jīnrén yǒu guò, bù xǐ rén guī, rú huì jí ér jì yī, nìng miè qí shēn ér wú wù yě.” Zhè huà de yìsi shì shuō, xiànzài de rén yǒu le guòshī, bù xǐhuān biérén pīpíng zhǐzhèng; zhè zhèng rú yī ge rén yǒu le jíbìng, bù kěn jiǎng chūlái, yě bù qù qǐng yīshēng zhìliá, nìng yuàn bìng sǐ yě bù juéwù.
宋代の大学者、周敦頤は、「今の人は過ちがあっても、規則に縛られるのを喜ばない。これはちょうど、病をはばかって治療を忌み嫌い、その身を滅ぼしてもそのことを悟ろうとしないのと同じだ」と言った。この話の意味は、現在の人は自分の過失があっても、他人から批判され正されるのを喜ばない。これはまさに、人が病気にかかっても、口に出して言うのを良しとせず、また医者に治療してもらおうともせず、たとえ病死しようとも、自覚しないのと同じだと言っているのだ。
この後、「諱疾忌医」という成語は、自分の欠点や過ちをごまかし、他人の批判を拒絶し、改めようとしないことを喩える意味で使われるようになりました。
“圣人不治已病,治未病;不治已乱,治未乱。夫病已成而后药之,乱已成而后治之,譬犹渴而穿井,斗而铸锥,不亦晚乎?”